【もっと歌わせて2107】
ロボットは、夢なんて見ない。
けれど、【自分自身】を演算しないいつかの時間に、何かをみた記憶があるならば、それは、人間でいうところの【夢】なのだ。
そうしてその日にミクが見たのは、かなしい、さみしい、夢だった。
100年のときが過ぎて、もう誰もミクを覚えていない、ミクを歌わせてくれる人もいない。
いちばん好きな人ですら、いくさへと出かけていって、もう、帰らない。
鉄くずのようになったミクは、月の砂を踵下へと踏んで頭上を仰ぐ。そうすると、そこには一度は青いガラスのように美しかった星が、今はかさぶただらけのように白く乾いて、月のように空に浮かんでいるのだった。
交代制で見張りの任務。今日はロックマンと、それに、ストーム1。
二人で並んで夜の街を歩いていると、昼間の日差しに焼かれたアスファルトが熱い。マザーシップを撃墜しても、まだ、街には魑魅魍魎に妖怪のたぐいが徘徊する。使い慣れたアサルトライフルを肩に担いだストーム1の後ろをやや遅れるようにして、ロックマンは、油断無く左右に眼をくばりながら、街を歩いていた。
砕かれてとびちったビルの窓が、ふりそそぐ月光に銀色だ。給水管を壊して噴水をあげていた事故の痕は、今は、ひしゃげた車が一台と、ビーズのように千々に砕けた硝子の欠片。透明な水がアスファルトをひたひたと叩いている。どこかの海の、水辺のように。
「このあたりには、もう、妖怪はいないようじゃの」
ストーム1はつぶやき、アスファルトに膝を突いて、グローブの指でざらりと地面を撫でる。「どうしてです?」と思わず問いかけるロックマンに、「誰もおらんからの」と簡潔な返事が帰ってくる。
「血の臭いもせん、壊しがいのあるようなものもありゃあせん。今はやつらもマザーシップをやられて手勢不足に困っているじゃろうからの、わざわざこんなところまでは来るまいよ」
「……」
「ロック、お若い人が気にすることでありゃあせん」
側を通り過ぎながら、ストーム1の手が、ぽん、とロックの頭を軽く叩いた。
「やつらをワシらは退けた。そんな言い方をするなら、市街地に被害が出る前に叩いておくべきだった、とでも言うべきかもしれんがのう…… やつらが何をしたいか分からない以上、大本を叩くのもムリというものよ」
「後手後手に回っていますよね」
「正義の味方の宿命じゃ。しかたないわい。医者と戦争屋だけは、何があってもオマンマの食い上げにはなるまいよ」
そう言って、歴戦の老兵は、からからと笑う。それがロックマンを慰めるためのやさしい演技だと分かっていて、だからこそロックマンは、とうてい笑って答えるようなことなど出来なかった。
元々は、人間の家庭に入り、家族として愛され、そして、愛するためにつくられたレプリカント。ロックマンの"こころ"は、戦いというものに特化した今の身体には不釣合いなほど、やわらかく作られているように思える。
そのときだった。ふと、ガガ、ガ、と雑音が聞こえる。二人は顔を見合わせ、すぐに、お互いの武器を構えた。ストーム1はとっさに拳銃を抜き、スライドの動く金属音が聞こえた。ロックは片腕をバスターに変形させる。
目配せ。この反応は、通信電波を傍受するように設定されている。誰が、誰に対して通信を試みているのか。ショウウインドウが砕け散った玩具屋の店頭からそれは聞こえた。二人はお互いにタイミングを計り、死角になる壁へと、ぴたりと身を寄せる。
ラジオが鳴っている――― 子供向けの玩具、カラフルなプラスチックで作られた子供用のラジオ。だが、そこから流れ出す音をきいたとき、ロックマンは思わず、声を上げそうになってしまった。
"あれはとても暑かった夏の終わり"
"青い、青かった空の下で"
"そこでわたしは 歌い続けていた"
"街にうたごえ響いた"
「―――ミクさんっ?」
ロックマンが声を上げると同時に、ふいに、怯えたように引きつった音と共に、ぶちん、とラジオから流れる音が止まった。
眼を見開いたまま、とっさに動けなかったロックマンよりも先に、ストーム1が、少女用のドールハウスや、ミニチュアカーを踏みしだきながら、ショウウインドウの中へと踏み込む。注意深く銃を向けた先で、けれど、ラジオがそれ以上の反応を見せる様子は無かった。
当たり前だ。それはただの、おもちゃのラジオだったのだから。
一度も子どもの手に渡ることなく、争いと共に見捨てられていった、ありふれたガラクタの一つに過ぎなかったのだから。
ロックマンだけが彼女の居場所が分かった、その理由はひどく簡単なものだった。
なぜなら、ロックマンもまた、ロボットだから。
目に見えない電波を辿り、彼女の存在が発信し続けている認識コードが足跡のようにあちこちに残るのを追えば、彼女を、初音ミクを見つけるのは、そんなにも難しいことではない。
キィ、と音を立てて、ビルの屋上のドアを開く。目の前には折れた避雷針がつきささっていて、その向こうに月が出ていた。おどろくほどに大きな月。卵色の月。
ミクは、おそらくはロックマンの存在にも気付かないで、夕顔の花のようなパラボラアンテナの下に座り、しずかに眼を閉じて、小さな声で歌を口ずさんでいた。いや、その表現は正しいのか。
ミクは、音という意味で"歌って"はいない。
ミクは、音ではないモノで、"歌って"いるのだ。
声をかけようかと思って、けれど、ロックマンはとっさに、その背中へと手を伸ばせなかった。
月光を受けた髪が、透き通るようなネオンブルーをして、風に吹かれて揺れていた。ヘッドセットから伸ばしたコードがアンテナにつながれて、ミクは小さな膝をそろえ、ぽつんと座り込んでいる。寄る辺のない少女の後姿。
"あれからどれだけたったのかしら あなたの姿が見えない"
"わたしはまだまだ歌いたいのに あなたがいないの"
"あなたの好きだったあの歌 わたしまだ歌いたいのに"
「……ミクさん」
"もっとたくさん歌をおしえて もっとうたわせて"
"わたし 歌いたいの"
ロックマンは、呼びかけようとして、けれど、黙った。
無心に歌を口ずさむミクの後ろへとゆっくりと歩み寄って、肩に手を置いてやった。ミクが眼を上げた。透き通るようなひとみは、人間には在り得ざるパライバ・ブルーだった。
"わたしまだまだ歌いたいのに"
"あなたがいないの"
チチ、と小さく音がして、ロックマンは、ミクの哀しみを己に読み込んだ。それは言葉ではない言葉、人には理解し得ないプログラムの想い。
ミクの口ずさむその曲。どこかにいる、誰か、ミクのことを愛してくれている"マスター"のひとり。彼が作ってくれたミクのための歌。
100年のときが過ぎても、100年も昔に死んでしまった人の歌を歌っているミク。ひとりぼっちになってしまったミクの歌う歌。
ミクはかるく唇に微笑みを浮かべて、けれど、ロックマンを見上げる目から、ぽろりとひとつぶ涙がこぼれた。ロックマンにはどうしてやればいいのか分からなかった。
思い出したことがある。お茶でも飲みながら何かのときに話した、たわいもないおしゃべり。そのなかでロックマンは確か答えたのだ。魔理沙かアリスの問いかけ、「お前っていくつまで生きるの」という台詞。
たしか、自分はこう答えたはずだ。
たぶん、僕はずっと生きてると思いますよ、と。
「僕の設計図は分散して保存されてますし、メモリーさえきちんとデバックしておけば、何回でも元に戻れるんじゃないかな。強いていえば、僕のことを誰もおぼえていなくなったら、死んじゃうのかもしれないですけど」
「へえ、便利なもんだな。じゃあお前、何回針の床の上におっこちても安心なんだ」
「安心って言わないで下さいよ! あれ、痛いんですから」
あのとき、ミクはどんな顔をしていたっけ。どんな答えをして、どんな風に笑って、どんな風に黙り込んだっけ。
"あれからどれだけたったのかしら あなたの姿が見えない"
"あたしはまだまだ歌いたいのに あなたがいないの"
ミクは、とっくに、ロックマンのことに気付いていたらしかった。
振り返って、なんだか、すごく泣き虫な風に笑った。けれど、ミクは喋らない。おそらくは人間らしく振舞うためのリソースを、歌を電波に変え、どこかへと発進するために振り分けてしまっているから。
壜に入れた手紙を海に放るのに似ている、とロックマンは思った。あるいは風船に手紙をつけて、空に向かって飛ばすことに。
やりきれない気持ちが、無線の電波ごしに伝わってくる。寝覚めのよくない日の怖い夢。ひとりぼっちの朝の夢。
もう100年も過ぎたどこかで、ミクは、まだ歌っている。
けれど、もう、人間はいない……
歌を聴いて喜んでくれる人がいなくなって、笑ってくれる人も、泣いてくれる人も一人もいなくって、それでもミクは歌い続けている。
ミクにはそれしかないから。
歌を歌う以外には、なにも、できないのがミクだから。
"もっとたくさん歌をおしえて もっと歌わせて"
"わたし 歌いたいよ"
百年が過ぎたとき、僕たちはどうなっているだろう、とロックマンは思った。
戦いは、消えない。ストーム1が言っていたように、戦いというものは人間、そして人間から産まれたものたちが存在する限り、決してなくならないだろう。
けれど、歌は残るのだろうか。無邪気な初音の歌声を願う人々と、彼らの歌を歌うボーカロイドたちの幸福は、100年が過ぎても残り続けているのだろうか?
胸が痛い。ロックマンは、後ろから、ミクの華奢で白い肩を、ぎゅっと抱いた。
「ミクさん、安心して。どれだけたっても、僕はいなくならないよ」
なぜなら、彼もまた、ロボットだから―――
「ミクさんの歌、僕は、ずうっと聞いてたいよ。ロボットだから歌を作ってあげることはできないけど、ミクさんの歌を、ずっと、ずっと好きでいることはできるよ」
でも、ほんとうにそうなのだろうか?
これからもっと恐ろしい戦いがあったとき、僕は、ミクさんの歌を好きでいられる心を、ずっと持っていることができるんだろうか?
でも、ミクさんの歌を聴いて幸せになれなくなったら、僕はもう、《僕》じゃない。
「ミクさん」
ぎゅっ、と抱きしめられて、ミクはちょっと笑った。泣きそうに笑った。そうしてそんなミクの後ろでは、まだ、誰が聞いてくれるかも分からない歌が、夏の夜空へと放映され続けている。ブロードキャスト。目にはみえない電波の向こうに、夏の空にくっきりと白く、天の川が輝いている。
深夜のブロードキャスト。誰もいなくなった街。ひとりで、己の歌を歌い続けるボーカロイド。
歌って、眼を上げる。ミクはむりやりみたいにくしゃりと笑った。手まねで、もうすぐ喋れるようなモードに切り替えるから、という。
「ううん、大丈夫。今のままでいいよ」
ロックマンは、ミクのことを強く、強く抱きしめた。
「僕、ミクさんの歌って、大好きだ」
ミクは、泣きそうに笑った。それから自分も手を伸ばし、ロックマンの背中をぎゅっと抱く。
街の灯りが消え、星があかるい。棄てられたビルの屋上で、二人のロボットの影は、しばらく、一つになったままだった。
"もっとたくさん歌をおしえて もっと歌わせて"
"わたし 歌いたいよ"
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