【修羅道乙女】
社長×言葉




 ―――そのとき、言葉は、まったく場違いに、ほんの数ヶ月ばかり前のことを思い出していた。
 学校では、誰も話しかけてくれる人なんていなかった。言葉のことを裏で悪くいう女子たちがいて、そして、それ以外にいたのは、彼女の豊満な体つきを、白くてうつくしい膚を、大人しげな面差しを、汚らわしい好奇心にまみれた目で嘗め回す男子生徒たちばっかりだった。
 それでも言葉は、何も怖くなかった。不安ではなかったというと嘘になる。その後におとずれる破滅が、ひたひたと静かな音を立てて歩み寄ってきているのを感じ取ってすらいたのかもしれない。
 逃げ出せばよかったのだろうか。まるで地獄へつづく六道が辻にたったようなその場所から、きびすを返し、耳をふさぎ、なにも見ない、聞かないつもりで、ころがるようにして逃げ去ればよかったのだと?
 今となっては思う。仮に、そうしていたところで、誰も自分を責めなかっただろうと。おそらくは言葉自身ですら、長い時間が経てば、そんな日々のことを、不幸によごれた記憶として、心の底へと葬り去る道を選んでいただろうと。
 だが、言葉は逃げなかった。
 まだあのころ、小さな手に刃を握るすべすら知らなかった言葉は、それでも、自分自身の願いから逃げ出すことだけはけっしてすまいと思っていた。
 逃げることこそが、失うこと。心の中で握り締めた手を離してしまうという事。
 どれだけ血にまみれ、狂気と咎がその背中に突き刺さろうと、大切なものを握り締めた手だけは、決して離したくはなかった。
 心の中で失わなければ、どんなものであってすら、けっして、失われることは無い。
 ―――。



 目の前へと迫る閃光の、圧倒的な輝きを、言葉は、半ば、スローモーションの映像であるかのように見ていた。焼き尽くされた大気が轟と音を立ててかまいたちとなり、天地はそのとき、光がために夜であるかのように暗く感じられた。
 音を立てて、地面が砕け、そして、微塵となった破片のひとつひとつが、純白の閃光のなかで燃え尽き、消滅する。コンクリートの破片が赤く熔熱して融け落ちる。言葉は、とっさに、手にした獲物を目の前に構えていた。だが、頭の中には冷静極まりない思考があって、数コンマの後には、あの純白の光の渦のなかで、自分もまた、地面へと焼き付けられた影の一片となりはてるだろうことを悟っていた。
 痛み、苦しみ、悔しさ、そして、他の全て。
 だが、そのときの言葉は、ほかの何もかもよりも、たった一つのことを思っていた。
 勝てないことが、悔しい。
 ―――ここであの光に焼かれ、己の身体という研ぎ澄まされた刃が、空しく折れることが、何よりも悔しい!
「桂さんッ!!」
 琴姫が、悲鳴を上げる。純白の閃光を放った少女は、もはや、確実に言葉をしとめたと、その唇のかたはしにわずかな笑みすら浮かべていた。スターライト・ブレイカー。圧倒的な光量を持った魔砲が、歯を食いしばって青古江をかまえた言葉を、飲み込もうとしている。
 誰もが覚悟をした。言葉がここで死ぬことを。
 だが。
「桂ァあッ!!」
 その瞬間、まったく予想だにされない声が、鋭く、大気を切り裂いた。
「な……っ!?」
 言葉は、その瞬間、背後から突然、一本のたくましい腕が、自分の身体を地面へと引きずり倒すのを感じた。同時に、《決闘者》のみが用いることのできる力が幻光と共に展開し、何もなかったはずの虚空に、一匹の龍が姿を現す。純白の身体は星の奔流を受けて輝き、開いたあざとが青白い焔を咬んでいた。そして、次の瞬間、すさまじい咆哮と共に、青白くスパークする雷火の奔流が、真正面から、恒星の焔をぶつかり合う。
 激突。衝撃。わずかに遅れて、鼓膜を突き破らんばかりの轟音と震動。
 熱風が、言葉の長い髪をむちゃくちゃに掻き毟った。膚を焼くほどの熱が一瞬通り過ぎていく。だが、それは言葉にダメージを与えることは無かった。言葉は呆然と眼を見開き、自分の身体の上に覆いかぶさっている男を見る。
 海馬瀬人。
「か、海馬、さ……っ」
 白いコートが焼け爛れ、千切れた裾が炭化しながらぼろぼろとこぼれた。肉の焦げる臭いと、炭化してぼろぼろと崩れていく皮膚。海馬は、放たれた恒星の熱を、半ばまともに受けてしまったのだ。半身が焼けただれ、みるまに腫れあがる皮膚が片目を塞ぐ。だが、半身を焔に灼かれながらも、海馬の青い双眸には、その闘志のひとかけらすらも失われていない。
「行け、桂ッ!!」
 その、声。
 まるで奔馬へと加えられる鞭の一打のように、その声が、言葉を打った。
 言葉は、とっさに、地面へと付きたてられた青古江を掴み、立ち上がっていた。半ばそれは剣士の本能。白い衣の少女は、いまだ星屑のきらめきをその身にまとったまま、目の前で起こった予想外の出来事に、驚きを隠しきれていない。それは、冥王の名で呼ばれた少女の、ありえざる一瞬の油断。
 鞘に収められたままの青古江を片手に、言葉は、赤く溶熱した地面を、一陣の風のように駆けた。踏み込みの一歩、勢いと共にその身を死角へと滑り込ませる二歩、そして、必殺の三歩―――!!
「冥王ッ」
 チリッ、とかすかな鈴鳴りに似た音を立てて、鞘が切られた。現れるは白刃。抜いて玉散る氷の刃。言葉は、己自身が刀と一体になるのを感じる。研ぎ澄まされた青鋼の切っ先に己の殺気のすべてを込めて、言葉は、目にも留まらぬスピードで、斬撃を放つ。
 それは、一閃にして九撃。まさしく、九頭龍が荒ぶる御霊のごとく。
「―――死んでッ…!!」
「くう……っ!!」
 彼女もまた、狼狽に顔をゆがめながら、とっさに、言葉の斬撃を受け止めようとする。
 だが、一撃がその杖を両断し、もう一撃が、少女の腕を斬り上げた。そして、残りの三撃が、まったく正確に、髪一筋すらもずれることなく同じ軌道へと切り込んだ。
 三撃目が、張り巡らされた魔法の障壁を、切り裂いた。
 四撃目が、白い衣装を。
 そして、最後の一撃は、ふかぶかと、少女の白い身体を、袈裟懸けに切り裂いた。
 鮮血。絶叫。そして、倒れる少女。
 言葉は、払った鞘を収める瞬間、背後を振り返っていた。
 白い龍は、主の受けた衝撃と同時に、姿を消していく。だが、半身と共に片目を灼かれた海馬は、確かに傲然とした笑みを浮かべ、歓喜に満ちた目で、言葉がやり遂げたその《仕事》を、見つめ――― そして、ゆっくりと、閉じられた。



 
 桂言葉は、運命がそれを定めることがなければ、けっして剣を手に取るような少女ではなかったはずだ。
 言葉は、自分自身が、力を――― 刃を求めたのは、ただの偶然であり、神の皮肉ないたずらのようなものだと思っていた。ほんの一年も前の言葉に対して、人を殺すことをどう思う、と問えば、おそろしい大罪であり、そんなことをする人間の気が知れないと答えていたことだろう。
 だが、今は違う。
 言葉は、自分の中に《乾き》を感じている。まるで自分自身が研ぎ澄まされた一振りの刀となってしまったように、乾いている。
 斬りたい。強いもの、より強いものを、斬りたい。その血で己自身の雪白の膚を潤し、氷の刃を真紅にひたし、もっと、もっと、強くなりたい―――

 琴姫が医務室から外に出てくると、外のベンチに、一人の少女がぽつんと腰掛けている。「言葉さん?」 声をかけると、はっと顔を上げた。服も髪も暗い色だからか、その面差しが抜きん出るように闇に白い。
「あの、……海馬さんなんですけど」
「もう、大丈夫です。心配いりませんよ」
 琴姫がにっこりと答えると、言葉は、露骨に安心したように、全身の力を抜いた。
 見れば、どれだけの長い間、ここに座っていたのだろう。おそらくは重症を負って倒れることになった海馬が心配だったのだろうな、と思って、琴姫は痛々しいと思うと同時に、すこしばかり心が温かくなるのを感じた。
 言葉はその手に、魔法瓶を握り締めている。黒い眼をためらいがちに彷徨わせる言葉に、琴姫は、「今は意識もあるみたいよ」と声をかける。
「ひとりぼっちがつまらないって、さっきからずっと文句を言っていましたから、お見舞いにいったら喜んでくれるんじゃないかしら」
「あの、わたしでも、大丈夫でしょうか」
「ええ、きっと喜びます」
 言葉はきゅっと唇を噛むと、「ありがとうございます」と深く頭を下げた。琴姫は少し微笑むと、「疲れさせないようにね」といって、言葉のとなりを通り過ぎる。
 スターライトブレイカーのほぼ直撃を受けていた海馬がいちばん重症だったから、今は、他のメンバーたちも落ち着いた状況にあるはずだ。廊下を歩きすぎながら、はあ、と琴姫はちょっと息をついて、自分の肩を軽く揉んでみる。治療係として昼夜ぶっ通しの仕事を続けていたが、今は全員が無事とわかって何よりだ。ちょっとくらいやすませてもらってもいいかしらね…… そう思って食堂に出た琴姫を、「よお」と明るい声が向かえた。
「あら、魔理沙さん…… 軍曹?」
「お疲れ様、琴姫。やっと始末がついたみたいだな」
 これはめずらしい組み合わせだ。テーブル越しに向かい合っているのは、ハートマン軍曹と霧雨魔理沙のふたり。琴姫は顔をほころばせる。
「有能な衛生兵がいるとは、ありがたい話だな。どうやらこの部隊では、死体袋の心配だけはしなくてもよさそうだ」
「私は軍人じゃないんですから…… ただの巫女で、癒し手ですわ」
「いいじゃねえか。このお堅い軍人のオッサンが、あんたのことだけは手放しで褒めてんだからよ」
「お前はもうちょっと自分の立場でも考えるんだな。デカいだけがとりえのテクなし嬢ちゃんが」
「おっ、言ってくれるじゃねぇか」
 乱暴な言葉を応酬しているが、この二人、実はこれでも仲がいいのだ。たたき上げの軍人であるハートマンは気が強い魔理沙のことを気に入っているようだったし、魔理沙もまた、相手のことを女だ男だと気にせずにぶつかってくるハートマンとなら付き合いやすいのだろう。「コーヒーならあるけど」と魔理沙に言われて、琴姫は、「ええ、いただきます」と顔をほころばせる。
 夜中の食堂には人気が無い。ひかえめに付けられた明かりのひとつふたつの下で、琴姫は自分のマグカップにたっぷりとミルクを注いだ。普段、茶ばかりを飲んでいる身にはコーヒーはいまいちなれないものだ。ちびちびとカップの中身を舐める琴姫のよこで、魔理沙が、「しっかしなあ」としみじみとため息をつく。
「結局大丈夫だったのか、社長?」
「ええ…… なんとか。後に障害が残ることもないと思いますし、すぐに、目も腕も元通りに動かせるようになると思います」
「遊戯も言ってたけど、バカだよな、あいつ」
 魔理沙のいうことには身も蓋も無い。思わず苦笑する琴姫に、「だってさぁ」と魔理沙は口を尖らせた。
「わたしは見ていなかったけど、自分から、SLBの火線につっこんでったんだろう? そんなこと、まともな神経もった人間だったら、やろうと思ったって出来ないぜ」
「あんたみたいな鉄砲玉に言われるとは、あいつもさぞかし心外だろうな」
「おいおい、ハートマン、わたしと海馬を一緒にするなよ」
 あいつ、アドレナリンジャンキーなんじゃないか? 魔理沙は肩をすくめた。
「相手が強ければ強いほど興奮するみたいだけど、ああいうのってどうなんだよ。早死にしそうで見ちゃいられない」
「あんたに、あの社長を心配するような殊勝さがあったとはな。驚きすぎてタマをおっことしちまいそうだ」
「それ、拾って阿部さんに届けてもらいたいのか?」
 琴姫は苦笑した。
「そういう風な言い方はよくないですわ。海馬さんは、桂さんのことを庇って怪我をされたんですもの」
 仲間のことを大切にするのは、すばらしいことだと思います、と琴姫は言う。
「でも…… あれだけ無謀なのは、ちょっと、こっちの心臓によくないと思いますけれど」
 コーヒーをまた舐めて、ちょっと顔をしかめて、今度はシュガーポットをひっぱってくる。彼女の手元にポットをよせてやりながら、ハートマンが肩をすくめた。
「やっぱりアンタには戦場のことは分からないらしいな、衛生兵じゃないお嬢ちゃん」
「え? どういう……」
「こっちの鉄砲女の言ってるほうが、当たってるだろうな。あいつは危ない。強いのは事実だが、兵隊としては失格だろうな」
 アメリカ人のくせに、ハートマンの飲んでいるコーヒーは、まるで煮出したようにどろどろに濃いものだった。それを無造作にがぶのみしながら、ハートマンはふと、何かを思い出すように眼を細めた。「思い出話かオッサン」と魔理沙に冷やかされ、「そのとおりだ」としかめつらで答える。
「たまに、戦場にはああいう人間がいる。とにかく死に物狂いで戦うし、恐怖にもおびえにも縁が無い。新兵どもがチビるどころかクソまで洩らすような修羅場になると、とたんに眼をギラつかせて、生き生きとしてきやがるんだ」
「おいおい、飯食いながらションベンとかクソとかいうんじゃねえよ」
「お前の口もクソで塞いどけ、鉄砲女。年上の話は聞くもんだ。……とにかく、連中はある意味、頭がおかしいんだろうな。作戦を成功させるために、身体にありったけの銃弾を巻きつけて、ゲリラどもが潜伏している廃墟につっこんでいった男をオレは知ってる。敵も味方もまるごと木っ端微塵だった。そいつ自身も髪の毛一本もどっちゃこなかったさ。備蓄してたガソリンに火がついて建物ごと木っ端微塵だからな」
 琴姫はおもわず、ごくりとコーヒーを飲み下した。まるで、炭の粉をお湯にでも溶いたような味だと思った。
「あの社長が、そういうやつだって?」
 魔理沙は、だが、逆に面白がっているような顔だ。「どうだかな」と答えて、ハートマンはマグカップをさかさまにする。もう一滴もないと気付いて「Shit!」と吐きすてる。
「でも…… 海馬さんには、大切なものがいくつもあるはずですわ」
 琴姫は、控えめに答えた。
「国には弟さんもいらっしゃるというし、みすみす命を捨てるような無茶はされないはずです。それに海馬さんも、魔王を倒して、世界を平和にするために戦っているはずですのに」
「どうでもいいんじゃないか、そんなの?」
 魔理沙はあっさりと言った。自分のマグカップに、つぎつぎと角砂糖を放り込みながら。
「自分が生きてる実感が得られる…… そんな戦いがしたい…… そういう人間もいるってことだろ」
 わたしも割りとそうだけどな。魔理沙は、ニヤッと笑った。
「もっとも、幻想郷だとスペルの打ち合いで死ぬ人間はいないけど。そうだな、これが終わったら、社長も一緒に幻想郷にこないか誘ってみるか。意外といけると思うぜ? 嫁符バーストストリーム、とかな」
「戦場以外じゃただのクソッタレにすぎない人間が、戦争に行くと英雄になることもある。どっちが幸福かなんて、オレにも分からない話だがな」
 ハートマンは、ポットの中にまで角砂糖を大量投下してしまった魔理沙を、うらめしそうににらんだ。
「だが、戦場に行かなければ”魂”が死んでしまうような種類の人間は、返り血にまみれるほうがまだ幸せということもあるだろうさ」
「……そんな幸福、わたしには……」
 わからないほうがいいだろうな、とハートマンは言った。そして、日焼けしてなめし皮のようになった顔に皺を刻んだ。
「まあ、ヤツには一緒に返り血をあびてくれる仲間もいる。理解はできないにしろ、せめて、幸運な男だ、と思ってやればいいだろうな、衛生兵?」
 ハートマンは笑ったのだ、と琴姫が気付いたのは、しばらくたってからのことだった。



 


 言葉が病室に入って、最初に感じたのは、つんと鼻を突くような消毒液の臭いだった。
 ぼろぼろに焼け焦げた白いコートがハンガーにかけられており、ベットの横には点滴が吊るされている。海馬は、半身を包帯で覆われたまま、ベットの上に横になっていた。言葉がためらいながら側の椅子に腰掛けると、片方だけ残った目が静かに開く。青い眼。瑠璃のように青い眼。
「……桂か」
「海馬さん、その、お見舞いにきたんです」
 痛くないですか? と言葉が控えめに聞くと、海馬は憮然とこたえた。
「痛いに決まっているだろう。それよりも、身体がうまく動かんのが、不愉快極まりない」
 そんな返事がいつもの海馬らしくて、言葉は、思わず少し笑ってしまう。その拍子に少し涙が滲んだ。袖で目をこする言葉を、海馬は、黙って見つめていた。
「何故、泣くのだ」
「……海馬さんが、無事で、うれしかったからです」
 わたしを庇った性で、と言葉はいう。
「海馬さんが死んでしまったり、一生不自由になるくらいの怪我をしてしまったら、耐えられません。ちゃんと治るって聞いて、とっても安心して……」
「くだらんな」
 だが、言葉の台詞を、海馬は途中で断ち切った。
 思わず眼を見開く言葉を見上げて、海馬は、ふん、とちいさくあざけるように笑った。その目には侮蔑と好奇の色が二つながらに存在している。
「オレは見ていたぞ、桂。貴様が冥王に止めを刺す瞬間をな」
「それは……」
「美事なものだった。踏み込みの一手、抜きの一手、払いの一手、どれをとっても一寸の無駄もなかった。―――貴様は、美しかった」
 言葉はぐっと唇を噛んだ。 ……人殺しをしている姿を美しいといわれても、嬉しくなんて無い。
 だが、海馬の目には、たしかに満足げな色がある。もしも彼を良く知る遊戯などが見たならば、海馬がこれほどに満足げな色を見せるのは珍しいことだ、と気付いただろう。また、彼が己の最愛の龍のほかの何者かを、《美しい》と評することすら、滅多に無いことなのだとも。
「詫びも礼も不要だ。オレは、自分のやりたいようにやっただけなのだからな」
「どういう、ことです……」
「貴様はあそこで、《殺し》のために刃を手に取った。オレがあそこで倒れなければ、お前はあれほどに、《刃そのもの》とはなりえなかっただろう。違うか」
 お前はまだ未熟だ、と海馬は淡々と言う。
「お前には覚悟が無い。――-自分自身の真の姿を認める覚悟がな」
「し、んの、って…… なんのことなんですかっ」
「お前は、人を斬ることが、好きなのだろう?」
 言葉は、声をなくした。
 海馬は片方だけになった目で、じっと、言葉の黒い瞳を見つめている。
「オレは、力のあるものが好きだ。弱いものになど興味はない」
 ―――そして。
「お前は強い。故に、お前は美しい。だからこのオレが、女ごときに興味を持ったのだ。貴様のような、ほんの少し前には、ただ惰弱でくだらない女にすぎなかった貴様にな」
「……」
 言葉はしばらく、黙り込んでいた。白い顔がさらに蒼白になり、言葉も無い。膝の上で魔法瓶がつよく握り締められている。
 やがて言葉は、搾り出すように、言った。
「……わたしは、誠くんのために、強くなりたかった」
 誠。言葉のことを好きだといってくれた、誠。
 誠は決して、強い言葉を好きだったわけではないだろう。むしろ、護りたくなるような儚げなたたずまいを、やさしげな笑顔を、愛したはずだ。
 だが、糸の切れた凧のような誠をつなぎとめるためには、言葉は、どうしても強くならなければならなかった。待ち続ける強さ、己の思いを信じる強さ、邪魔なものを葬り去るための強さ。
 己の恋を護りぬくための強さ。
 言葉が、言葉自身であるための強さ。
 ふん、と海馬は再び哂った。
「くだらない理由だな」
「……誠くんを侮辱するのなら、海馬さんであっても、赦しません」
「赦さないならどうする?」
 一瞬、沈黙が流れた。
 やがて、言葉は、静かに言った。
「斬ります、あなたでも」
 海馬はしばらく、黙り込んでいた。
 だが、やがて、肩を震わせ、小さく笑い出す。やがてその笑い声は大きくなり、哄笑と言っていいほどのものとなった。
 言葉はその側に座ったまま、黙って、海馬を見つめていた。やがて海馬は笑いやむと、側に座った言葉を見る。その目はたしかに笑っていた。あざけりの笑いではなく、たしかに、己が対等と認めた存在を見る、尊敬のこもった色がそこにある。
「貴様はオレが思ったとおりの女だな、桂」
「人殺しで、狂人。そう思いますか?」
 やや自嘲気味につぶやく言葉に、「違う」と海馬は言った。
「お前は《戦士》だ」
 意外な言葉に、言葉は、眼をまたたいた。
「自分自身の誇りを守るために戦う意思があり、それを全うするだけの力を持っている。美しい生き方だ。―――このオレがお前を認めてやっているということだ、桂言葉」
 言葉には、しばらく、なんと返事をしていいのか、わからなかった。
 あの瞬間、言葉は、自分自身がまぎれもなく、《刃》であると感じた―――
 殺すためだけのもの、斬るためだけの存在。その、研ぎ澄まされた異形の美。冷たく光る白い刃の切っ先に、己自身が存在すると、感じた。
 はじめ、この手に刃を握り締めた理由は、もしかしたら、誠のためであったのかもしれない。だが、今では、少しづつ何かが違ってきていると感じている。
 喉が渇くように、言葉は、人が斬りたかった。
 鞘をきり、闇に一閃する白刃が、肉を断ち、そして、肉によって記述されている生命そのもの、を吹き消すということに、確かに悦びを感じている。
 戦いたい。斬りたい。己を限界まで研ぎ澄ましたい。この手にたずさえた妖刀の白々とした清らかなかがやきのようになり、その一瞬の斬撃のなかに、己自身の証明を感じたい。
 言葉は、こくり、とつばを飲み下した。問いかける声が震えた。
「わたしが…… もしも、人殺しで、殺人狂の人斬りになっても、海馬さんは、同じことを、言えるんですか?」
「ああ」
 海馬は、寸暇もなく、答えた。笑いすら含めて。
「お前が強く、美しければ、それ以外のことにはなんの価値もない。―――お前も同じことを考えているだろう、桂?」
 いや。
「……言葉、お前は美しい。その生き方を全うしろ。オレは、それを見てみたい」
 なんでか分からなかったが、言葉は、急に、泣きたくなった。
 だが、涙はこの状況に、もっとも相応しくないものに思えたから、言葉は笑った。まるで慈母のように優しく微笑み、頷いた。
「レモネードを作ってきたんです。少し、飲んでください。神経がおちつくから」
「……ああ」
 言葉は、もってきた魔法瓶から、付属のカップにレモネードを注いだ。あたたかく甘い香りがした。言葉は、ぼんやりと思った。
 私は私を、一振りの刀にしてまで、何がほしかったんだろうと。
 たぶん、自分自身を、誰にも壊されたくなかった。己の意思を、己の恋を、想いを、奪われたくなかった。奪われるくらいなら、血まみれになり、罪と咎にまみれても、己が己自身でありつづけるほうを言葉は選んだ。
 けれど、そんな生き方を、《美しい》と呼ばれるときが来るなんて、一度だって思ったことはなかった。ただ心の赴くままに生きているだけだった。
 その道が無間地獄へと続いていたとしても。
 その定めが、人ではなく、修羅の定めだとしても。
「海馬さん……」
 言葉は、ちいさく、問いかけた。
「あなたも、自分が自分であるために、強くなりたかったんですか?」
「……」
 海馬は、何も答えなかった。答えないだろうと思っていたから、言葉もそれ以上、何も言わなかった。
 ―――でも、いつかその答えを聞きたい。
 言葉は、温かなレモネードの香りの中で、ぼんやりと、そう思っていた。